高楼方子さんの講演を聴くのは3回目。私は大ファンなのである。
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定員70人とのことだったが、意外とこじんまりした部屋で、実際40~50人しかいなかったように思う。私は開場と同時に入って、機材の確認をしていた高楼方子さんにちょっとご挨拶することもできた。
今回は、2年前に私達が主催した講演会と同じ「お話への思いー朗読をまじえて」という演題。あの時以来何だか便利なのであちこちで使っています、とメールでおっしゃっていた。でも、内容は同じではない。今回は最近出版された本についてお話してくださった。
★『4ミリ同盟』
いつもは読者としての対象を考えて書くのだが、これはそうではなく、自由に書きたいように書いた。
2年前、とても落ち込む出来事があって、自己嫌悪に陥った。「なぜ私は成長しないのか」と。そこでこれをお話にしようと思い立った。そうすることで、気を紛らわせたり、その本質を探ったりできるかもしれない、と書き始めた。
このお話に出てくる「フラココの実」の「フラココ」とはブランコを表す日本の古い言葉。ちょっと変わった名前で、でも何か意味のあるものにしたかったから、ブラブラ実っているところからこの名前にした。実の色は「ヘリオトロープ色」(紫っぽい色)で、これは今凝っているプルーストの『失われた時を求めて』に出てくる、時間を表す色でもある。
大人になれば誰でもその実を食べる住人たちの中で、どうしてもその実を食べに行きつけない男。そんな自分をそのまま受け入れるのか、食べると違う世界が見えてくるんじゃないのか。でもそのかわりに何かを失うのではないか。
その実を食べたことのない人は歩く時に4ミリ浮いているという。地が足についていないという意味。
自己嫌悪をただの愚痴にして終わらせるのではなく、作品として昇華するということは、頭をつかうということ。頭も体同様、動かさなければならない。
たまたま福音館の編集の人に何かありませんか、と言われて引き出しから取り出したこのお話は、子どもが一人も出てこないし、対象がはっきりしないのだが、編集者に気に入ってもらえた。「子どもの頃にこれを読みたかった」と。
「大人になったら何かにならなきゃならない」というプレッシャーを感じていることも質に、こんなふうにいつまでも成長しない大人もいるということを、肯定的に表している。
私はそこまで深く考えずに、不思議な話だなあと思っていた。実を食べられない者同士4人が協力して実を食べに行くところとか、いつの間にかできた連帯感とか、子どもっぽくて楽しかった。最後は、いわゆるメデタシメデタシではなく、ちょっとがっかりなのに、4人で笑っちゃう。ほのぼのとした楽しいお話だった。
★『グドーさんのおさんぽびより』
福音館のWeb連載で毎月1話ずつ書いてきたものをまとめた。佐々木マキさんの絵がぴったり。佐々木マキさんは起承転結で無理に話をまとめているのではないところが気に入った、と言ってくれた、
1話が3~4枚。病院や歯医者さんなどの待合室に置いて、気軽に読んでもらえたらいいなと思っている。
これも読者対象を考えずに書いた。教訓はない。ただ日常のふわふわぶらぶらしている良い時間、しゃぼん玉のように浮かんでいる時間を拾ってきて1話にしていった。
9歳の女の子とおじさん2人の3人が主人公。この3人はまったく対等な友達。女の子をかわいがるとか、おじさんを尊敬するとか、そういうのはない。どうして友達になったかという背景もなく、友達である。
日常を描いたとはいえ、磨きをかけることにより、非日常になっていく。
この中から(私も密かに一番好きな)「ふかまるなぞ」を朗読してくださった。なんとこれは高楼方子さんとお友達との間で本当にあった話を元にして書いたものだそうだ。
実際にあったこと、おもしろいと思ったことをお話の形にすることにより、色がくっきりして、形に残すことができる。
私は高楼さんに教えていただいて連載中から楽しみに読んでいた。クスッと笑える話や、呆れる話、心温まる話などが、気楽に読めるところがいい。
本になったのを見たら、佐々木マキさん(私はこの方のファンでもある)の挿絵が全部綺麗に入っていて、装丁も素敵な愛蔵版のようなもの。(高楼さんもおっしゃるように)ちょっと値は張るけれど手元において置きたい気がする。購入するかどうか迷い中。
★『街角には物語が……』
出久根育さんに絵を描いてもらったのは3冊目。
昔のどこかヨーロッパの旧市街の話。時が降り積もっている。曲がっていった小道の先には何かある。不思議な話、バカバカしい話、ゾッとする話、を想像しながら書いた。
「新しい」とはどういうことかを考えた。自分が見たことのないもの(時代は昔であっても今であっても)は新しいのではないか。
自分が知っている感情(既視感)が、言葉にはまっていくのを「失われた時を求めて」ですごく感じている。1匹の魚を切り開いていく感じ。
そういう読書体験をしてもらえたらいいと思う。
これも私は大好き。特に、ベビーシッターの女の子が窓から街を見下ろして悲恋を想像する「彼女の秘密」がお気に入り。ワクワクしたかと思えば、ドキッと怖くなる。
★『ちゃめひめさま』シリーズ
3年前、キリコの「通りの神秘と憂鬱」という絵から『リリコは眠れない』という話を書いた。
あかね書房の担当編集者はものすごく気に入ってくれたが、編集長は「わけがわからない。こんなの出版できない」と言った。でも、他にも推してくれる編集者がいて、渋々出版することに。「ただし、おもしろい子ども向けの本を3冊書いてくれるなら」という条件をつけられた。それを飲んで書いたのが「ちゃめひめさま」。2冊はすでに出版されており、3冊目も書き上げてある。これで約束の3冊。
『リリコは眠れない』は、好き嫌いが分かれる本で、すごく好きだという人と、わけがわからないという人といる。重版もかからず終わるんだろうと思っていたら、今年の夏、西日本の中学生の「感想画コンクール」の課題図書に選ばれてびっくり。
私は『リリコは眠れない』が大好き。最初に高楼方子さんの講演会に行った時に(すでに図書館で借りて読んでいたのだが)購入してサインも頂いた。その時に、例のあかね書房の編集者の方にもお会いした。情熱的な女性の方だった。
購入した本で再読したときも、やっぱり涙が溢れた。リリコの気持ちがすごくわかる。
『ちゃめひめさま・・・』は今どきお姫様?と思われるかもしれないが、「さあ、面白いお話を書くぞ!」とクイズをやるような感覚で楽しんで書いた。頭が活性化して楽しい。
このお姫様はいたずらっこで「ブサ可愛い」姫。絵を描いてくださった佐竹美保さんは「かわいいお姫様を描きたいよ。お姫様でしょ」とおっしゃったが、それじゃ駄目だと言って、ブサ可愛い姫を描いてもらった。そのかわり、小間使いの方はいかにもかわいいお姫様風に。
佐竹美保さんは漫画チックなものも描かれるので、そうだったら嫌だなと高楼さんは思っていたそうだが、そこはちゃんと希望に沿ってくださった。
私は『ちゃめひめさまとペピーノおうじ』の方しかまだ読んでいないが、これぞ児童文学の王道という感じで懐かしい感じがした。佐竹美保さんの絵も最高。ちゃめひめさまが本当にブサ可愛い。どっちりしたお尻なんか、笑っちゃうくらい最高。
佐竹美保さんは600冊も挿絵を描いているのだそう。それぞれに合った画風で、どんな注文にもササッと応えて描いてくれるので重宝がられるのだろう。でも仕事しすぎ。高楼さんは「ちゃめひめさま」を4冊でも5冊でも書きたい気持ちだったが、佐竹美保さんが「もうやめちくれ~無理」とのこと。残念。
確かに佐竹美保さんはいろんな画風で描いているので、同じ方とは思えない。このちゃめひめさま、大人っぽい『魔女の宅急便』や私の大好きな『帰命寺横丁の夏』の絵を描いた同じ人とは思えない。
★『ぺちゃくちゃばーぶー』(こどものとも年少版 2018年10月号)
21年ぶりの「こどものとも」(今回は年少版)の仕事。再来月の初めに出版されるもので、初公開。
メリーポピンズの中に「赤ちゃんはまだ言葉をしゃべれないうちは小鳥の言葉がわかる」というのがあって、それを元に書いた話。
赤いベンチで編み物をするおばあさんが、話し相手がほしいとつぶやく。それをきいた風が木の葉に伝え、小鳥に伝え、赤ちゃんに伝え、赤ちゃんが「ばーぶー」と幼いお兄ちゃんに伝え、お母さんに伝え、正確に伝わってお母さんといっしょにみんなで赤いベンチのおばあさんのところへおしゃべりに行く。
親戚の赤ちゃんとそのお兄ちゃんを見ていて思いついた。小さい子向けの絵本だが、どこから読んでもいいような単なる繰り返しの赤ちゃん絵本ではなく、少しはストーリーのあるものにしたかった。
かわいいお話だった。忘れずに買おう。
★『老嬢物語』(エッセイ)
偕成社のWeb連載をまとめたもの。たくさんの老嬢の話を書いた。最初はそんなに続くかなと心配だったが、考えてみると身の回りのおばあさん、旅先で出会ったおばあさん、本の中のおばあさん、映画の中のおばあさん、などいろいろいる。
この中から「ナポリの空の下」を朗読してくださった。たくましく生きるおばあさんの話。高楼さんの朗読は聞きやすくてかわいくて、素敵。
★『ココの詩』『時計坂の家』『十一月の扉』
リブリオ出版から出ていたこの3冊。リブリオ出版がなくなるということで、2年前、福音館がまとめて新しく出版してくれることになった。
つい昨日「本の雑誌」の絶版になった本の特集記事で、写真入りで「『時計坂の家』がそのままの絵で再出版されたのが嬉しい」というようなことが書いてあったのでびっくり。
出版社を変えて再出版になるときは、そのまま同じものを出したのでは芸がないと思うのか、画家を変えたりすることが多い。でも、この3冊は姉の千葉史子が絵を描いてくれたもので、福音館ではそのままにしてくれた。『ココの詩』の表紙だけは姉が、初版のものはやっつけ仕事だったのでちゃんと描き直したいと言って、同じ構図で力を入れて描き直してくれた。
私も再出版された本が違う絵になっていてがっかりしたことが何度かある。子どもの頃に好きで親しんでいた本がアニメ調の絵になったものしか手に入らなくなっていたときのショック。
最後に、質問に答えて日常から非日常に変えるときのことについて語ってくださった。
日常から位置場面を切り取り、そこに焦点を当てる。そしてそれを拡大鏡で見ていく。突き詰めて本質を見ていく。そうすることによって、すでに非日常になっていく。
高楼方子さんがお好きだという葛原妙子さんの短歌も紹介してくださった。『老嬢物語』にも書いたそうだ。好きだと思った短歌を暗記しておくと、素晴らしい景色を見たときや感動したときなど、その短歌の言葉を借りてよりよくその感動を味わうことができる。
それは短歌に限らず読書の効用として聞いたことがある。「本を読むより実際の体験のほうが重要だ」という人もいるが、実は本を読んで語彙が豊富であってこそ、実際の体験をきちんと味わうことができるのだという。それだと思った。
いつも感じることだが、高楼方子さんは本当に物語を書くために生まれてきたような方だ。楽しんで書いている。自分の内から湧き上がってくるものを書く、子どもに楽しんでもらいたいと思いながら書く、そういう純粋な気持ちで書いているのがわかる。
児童文学作家・絵本作家の中には、子どもにウケるためにリサーチをしたり、買い手である親に媚びるような絵本を書いたり、売れる本を書くにはどうしたらいいか策を練ったりする人もいる。でも、そういうことは高楼方子さんは全然考えていない。
それでも、ちゃんと子どもたちに支持され、大人も惹きつけ、「大ファンです」という人たちがたくさんいる。本もほとんど絶版にならずに長く読まれ続けている。
今日も、終わってからもファンの皆さんが群がって、サインをもらったり写真を撮ったりお話したりして、大感激している姿があった。